Yamachanの日記捨て場

日記は書くべきだ。そして、書いたそばから捨てるべきものだ

名前

 名前は人を表すとはよく言ったものだと考える。しかし、本当にそうだろうか。人が名前に寄せていったということはないだろうか。つまり、自分の名前に相応しい振る舞いをするようになったとか、他人の名前から勝手にイメージを作り上げているということだ。自分の名前にふさわしい振る舞いをするように心がけることは比較的良いことではないかと私は考える。名前はたいてい親が子供の将来を願ってつけるものであり、そこにはこんな人間になってほしいといった祈りが込められていることが多いからだ。一方で、他人の名前から勝手にイメージを作り上げてしまうことは褒められることではないと思う。

 例えば、ある所に森見登美彦さんという人がいたとする。これは完全に仮の名前であり決して私が個人的に好んで読んでいる本の著者の名前を適当に上げたのではないということをここに明確に記しておく。すると、たいていの人は「ああこの人はおそらく京都の町と本と地下室が大好きなんだろうな」と思うことだろう。しかし、実際のことは本人に聞いてみないとわからない。しかも本人に聞いたとしても本当のことを答えてくれるとは限らない。森見登美彦さんの例は極端だったとしても、名前の中に岩が入っていたら「怖そうだな」とか、雪が入っていたら「か弱いのかな」なんて思ったりすることはあると思う。

 私はこのようなことが日常的に普遍的に潜在的に起きてるのではないかと思う。名前の場合はまだいいかもしれない。ところが、これが本人のことを知った後でさえ起きてしまうことが多々ある。つまり、自分の自覚する自分と、他人の思う自分と、自分が理想としている自分が相互的に反応して変化していってしまうのだ。自分の考える現在の自分と理想の自分のみであったなら話はずっと簡単になるのだが、そこに他人の見る自分が入ってくる。しかも、他人から見る自分というのは環境が変わらない限り基本的に変わることはなく、それでいて他の二つよりも大きな力を持っているように感じる。結果、他人の見ている自分が理想の自分となってしまい、自分でもその自分こそが本物であると錯覚してしまう。

 人から見られる自分と、自分で知覚している自分が一致する人間などいるのだろうか。また、この苦しみから逃れられた人はいるのだろうか。私はこのような耳の奥が痛くなるような問題に気が付いてしまったときいつも、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出して「このズレに気づいて苦しんでいるということはそれだけで偉いことなのだ」と自分を納得させている。

 なんだかこの文章を書いていたら耳の奥が痛んできたためここまでとする。