Yamachanの日記捨て場

日記は書くべきだ。そして、書いたそばから捨てるべきものだ

幸せの大きさ

 幸せの大きさとは何を指すのか。それは、「お金をたくさん持っている人の幸せは大きくて逆に少ない人の幸せは小さいんだ」とか「友達が多い人は、、、」という話ではない。では何なのかというと、「人類皆が幸福にならなければ、私は幸せではないと考える人の幸せは大きく、逆に自分一人が幸福であればそれで幸せを感じることができる人の幸せは小さい」という意味合いだ。ここで勘違いしてほしくないのは、この言葉のこの定義とは私が考えただけのものであり(既出の考え方かもしれないが、少なくとも私はそれを自分で考え出した)この「幸せの大きさ」という指標には善し悪しがないという点だ。

 「いやいや、人のことを考えずに自分の幸福のみを追求する人と世界全体の幸福のことを考える人を一緒にしてほしくない。その考えは間違っている」という声が聞こえてきそうだ。確かに、人のことを考えられない子供に対して教育をすることは必要だと思うが、一方でその教育を受けてきた大人に対してそういったことを言うのは間違いだと考えている。例えば、雨の日に傘を忘れてきてしまったとして、目の前の傘立てには傘があるとしよう。この傘を借りぱくすればこの傘の持ち主は困るかもしれない。一方でこの傘の持ち主は他の手段を使ってすでに帰っているかもしれない。しかし、私はこの傘を借りぱくしようなどとは考えない。なぜなら、自分が雨でぬれて嫌な思いをするのは一瞬だが、傘を盗んだという事実だけは永遠にそこに残り続けるからだ。その傘立てを見るたび、もしくは傘を見るたびに思い出すかもしれない。つまり、思いやりの心を教育された我々はその考え方をすでに自分の幸せの中に取り込んでいるといえる。このように、自分が罪悪感を感じることをしたくないというのは幸せの大きさとしては最小の自分の幸せを追い求めたからであるが、結果として他人に迷惑をかけることをしていない。

 一方で世界の幸福を望んだために多くの人に迷惑をかけた事例もいくつもあるのではないかと思う。つまり、幸せの大きさとはそれ自体が善悪を持つものではない。

 では、どちらのほうが一個人として幸福なのかと問われると、やはり幸せは小さいほうが良いのではないかと考えてしまう。例えば、私は本を読むことで幸せを感じることが多々あるが、世界のことを考えれば、今すぐに紙を作るための森林破壊をやめさせるべきであり、人件費を極限まで抑えて作った服などは着るべきではないし、ましてや本を買いに車を使うなんてとんでもないことだ、という意見になる。もちろんこれは極論の話であるが、幸せが大きいことは幸福であるということとは直結しないということがわかる。

名前

 名前は人を表すとはよく言ったものだと考える。しかし、本当にそうだろうか。人が名前に寄せていったということはないだろうか。つまり、自分の名前に相応しい振る舞いをするようになったとか、他人の名前から勝手にイメージを作り上げているということだ。自分の名前にふさわしい振る舞いをするように心がけることは比較的良いことではないかと私は考える。名前はたいてい親が子供の将来を願ってつけるものであり、そこにはこんな人間になってほしいといった祈りが込められていることが多いからだ。一方で、他人の名前から勝手にイメージを作り上げてしまうことは褒められることではないと思う。

 例えば、ある所に森見登美彦さんという人がいたとする。これは完全に仮の名前であり決して私が個人的に好んで読んでいる本の著者の名前を適当に上げたのではないということをここに明確に記しておく。すると、たいていの人は「ああこの人はおそらく京都の町と本と地下室が大好きなんだろうな」と思うことだろう。しかし、実際のことは本人に聞いてみないとわからない。しかも本人に聞いたとしても本当のことを答えてくれるとは限らない。森見登美彦さんの例は極端だったとしても、名前の中に岩が入っていたら「怖そうだな」とか、雪が入っていたら「か弱いのかな」なんて思ったりすることはあると思う。

 私はこのようなことが日常的に普遍的に潜在的に起きてるのではないかと思う。名前の場合はまだいいかもしれない。ところが、これが本人のことを知った後でさえ起きてしまうことが多々ある。つまり、自分の自覚する自分と、他人の思う自分と、自分が理想としている自分が相互的に反応して変化していってしまうのだ。自分の考える現在の自分と理想の自分のみであったなら話はずっと簡単になるのだが、そこに他人の見る自分が入ってくる。しかも、他人から見る自分というのは環境が変わらない限り基本的に変わることはなく、それでいて他の二つよりも大きな力を持っているように感じる。結果、他人の見ている自分が理想の自分となってしまい、自分でもその自分こそが本物であると錯覚してしまう。

 人から見られる自分と、自分で知覚している自分が一致する人間などいるのだろうか。また、この苦しみから逃れられた人はいるのだろうか。私はこのような耳の奥が痛くなるような問題に気が付いてしまったときいつも、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出して「このズレに気づいて苦しんでいるということはそれだけで偉いことなのだ」と自分を納得させている。

 なんだかこの文章を書いていたら耳の奥が痛んできたためここまでとする。

日記の始まり

 自身の誕生日が近づく秋の良い日に日記をつけ始めた。ただ日記をつけるのでは続かないと考えたため、ブログという目に見える形で残すことにした。毎日つけるのか、はたまた何か書きたい出来事があったら書くのか、未来の私が何を考えているのかわからないが、今のところ三日坊主で終わらせる気はない。このようなことをこれまでの日記の始まりでも書いていたような気がしないでもない。しかし、大切なのはもう一度日記を書き始めようと思ったその心意気なのだ。その心意気さえあれば、いつ日記を書くことをやめても問題はない。いや、そんなことはない。

 はて、日記という体をとりながらもやはり私のことを何も知らない人が私の駄文を長々と読むことは難しいと考えたため、少し自己紹介を行う。私は、バイトなし、彼女無し、かといって成績が抜群にいいわけでもない冴えない大学生だ。大学の近くに一人暮らしをしているため、数少ない仲のいい友人と遊ぶとき以外は、自ら進んで勉強することもなく、所属しているサークルに精を出すでもなく、バイトの代わりと思って勉強しているプログラミングをするでもなく、一人修行に励んでいる。何の修行かと問われても、そのようなことを問うやつに教える気はないし、私も私に何の修行かを問いながら修行をしている。そのため、この修行が何の修行なのか誰も分からない。

 年齢は満20。よってあと3カ月もすれば、成人式という忌むべき行事に参加しなくてはならない。先に断っておくが、中学校、高校において私はサッカー部に所属しており、クールなイケメンだった。クールを徹底しすぎて当時の彼女に振られたことは今回は放り投げておく。何はともあれ、成人式、同窓会に行けば友達はたくさんいる。しかし、問題はそこではなく、逆に仲が良かったからこそ会わない期間が空いた分名にお話せばよいのかわからないということだ。何がうれしくて、気まずさと遠慮と落胆と一つまみの狂気が入り混じったこの世の地獄のような行事に参加しなくてはならないのかはなはだ疑問だ。じゃあ出席しなければいいではないかと簡単に言ってくれるな。親がそこそこ楽しみにしているのを私は知っている。私の膨大な苦労で親のそこそこの楽しみが生まれるのであれば出席しないわけにはいかない。20歳という節目で仲間内で集まりたいということは理解できるが、なぜ大人数で行おうなどと考えるのだろうか。このご時世なのだから仲のいい少人数だけで行ったり、リモートで行ったり、、、いやリモートならいっそなくてもかまわない。リモート会話の苦しさは、久方ぶりに会った友人との会話の数倍であることを私は知っている。さらに仲のいい友人だけで集まることになった際、私だけどこにも呼ばれないなんてことになったら。

結果今夜は、成人式のような馬鹿な行事は私のような冴えない大学生のためにあることを実感する夜となった。